グループホームでの食事

グループホームの食事について。

認知症とともに生きるお年寄りが共同生活する場がグループホーム。

ご飯はどうしてるのでしょうか?

ホームによって違うと思いますが。僕の職場のことを紹介します。

朝 割りと固定。トースト、卵焼き、野菜スープ、バナナヨーグルト。希望聞いてご飯、納豆もあり。
卵焼きは入居者さんに焼いてもらったりしています。

お昼。メニュー会議を開いて、何を食べたいか聞く。うどん、そば、カレーライスなど一皿料理。決まったら、キッチンで野菜カット、盛り付けなど出来る方にお願いする。

良く見学の方々が包丁使わせてるんですか?と驚かれることがありますが、、認知症であっても料理の腕は衰えない人が多いです。主婦だった女性はもちろんそうなんだけど、昔料理してなかった元職人の男性がホームに入って野菜カットを手伝うようになってた、いくつになっても
変化はできる。

夜。肉と、魚日替わりでとってるので、メインはそれで作ります。例えば魚の切身を見せて焼きますか?煮ますか?と聞いたり。あとは、おひたし等の小鉢、煮物、味噌汁、ご飯。これもお米研いでもらったり、野菜カット、盛り付けなどお手伝いしてもらいます。味見も。

グループホームといっても、千差万別。調理室がついて出来合いのを食べるだけ、というところもあります。家事って身体を使うし喋りながらで脳も使うので、料理してるホームの方が老化防止になってるなと実感してます。

もし、グループホーム見学することがあったら、食事はどうしてるか?入居者さんで作ることがあるか?包丁使ってるか?
を確認するといいかもしれません。

ぐるぐるグループホーム

みなさんはグループホームを、ご存じだろうか?

私の働いてる職場はここ。認知症のお年寄りが共同生活を送っている。

老人ホームと違うのか?と思われるでしょうが、、なんて説明したらいいだろうか。

正式名称とか、人数などから説明することも出来るけど、、イマイチ分かりづらくなるんですよね。大木を説明するのに葉っぱから細かく見ていくようで。

ザックリというと、、、じいちゃんばあちゃんのシェアハウスです。

共同のリビング、キッチンに個人個人の個室があるのがシェアハウスだと思うので、まあずれてはないかなと。ただ、認知症の方が入る、というルールなので(正式名称は認知症対応型共同生活介護)、支援の介護スタッフがいる。

一つのリビングあたり個室が九つが基本。九人が一緒に生活するわけですね。
あれ、この九って数字の根拠はなんだろう?ちょっと調べてみますね。

お風呂ももちろんあるけどたいてい一つのリビングに一つ。居室についてるのは私は見たことない。

トイレは、私の職場は3つあるけど、小さいとこでは一つだけってところもあるだろう。

グループホームって、ホーム(家)のグループ(集まり) って書くのに、まるで部屋の集まりだ。ルームの集まり、グループルームが正しいんじゃないか。

これには理由があって、この制度を作るときに参考にした北欧では、各居室にキッチン、トイレ、シャワールームがついてた。それを土地の狭い日本に導入する際に現在の形式になったそうだ。、、とグループホームの研修で聞いた。

それに、シェアハウスって聞くとなんだか共同生活してるイメージが湧きませんか?
みんなで料理作ったり、喧嘩したり。(テラスハウスのイメージ?)

だから思いつきから始まりましたけど、知らない方に説明するのに、意外とピッタリくる説明かもしれませんね。

認知症とは。

認知症の定義について書いてみたい。

認知症とは、①原因疾患があり②脳そのものが壊れ③一度獲得した知的能力が衰退し④起こる生活障害の総称である。

今日は認知症を結論部分から考えてみたい。認知症とは?一言でいうなら、「生活障害」である。

生活障害って言われると、脳梗塞で麻痺した身体もそう。足を怪我して松葉杖ついてることもそう。手の親指使えないと不便になるのもそう。
では、それらと、認知症の生活障害とはどこが違うのか。体は元気、でも脳が認知症だと、何が困るのか?

それは、人間の高次な脳機能、知的な能力が壊れてしまうことに関わってくる。今日がいつかわかる。ここがどこかわかる。目の前にいる知り合いが誰かわかる。道具の使い方がわかる。周りの状況から今はどう振る舞ったらいいかわかる。などなど、、、。

これらが、うまくいかなかったらどうなるか。きっと毎日困難を感じることはイメージできる。生活障害と言ってさしつかえないだろう。認知症になることは脳の高度な機能が発揮できなくなり、生活を送ることが困難になるのだ。

生活するってそんな複雑なことだったの?人間の脳はそんな複雑なことを難なくこなすことができていたんだ。

言い換えると、認知症を知るということは、生活を知るということであり、それを成り立たせる人間の奥深い知的能力を知ることである。
ただ、それを私たちは無意識に行っている。無自覚な能力だからこそ、気づきにくい。だから認知症の人が何で困ってるか分からないのだ。

とつとつダンス、、、介護のような、ダンスのような

2017年9月30日

老人ホームでうまれたとつとつダンス

ダンスのような、介護のような  砂利尾理

を読みました。

読書の感想。

・介護とダンスを並列にするなら、介護職の私からすれば

ダンスするように介護する だろうか

・この人は、越境する人だ。決まり事を壊し、ダンス相手のことを困惑させ、そこから生まれるものを求めている。この人こそ、コヨーテだ、トリックスターだ。

その原動力は昔から、自伝部分でも語られている閉塞感だ。

・待つことの大事さがくりかえし現れる。ダウン症の方どうしのダンスでずっと立ったままになったのを素晴らしいとほめる。

・この人は自画自賛の癖がある。子供のころからそうだとのこと。でもだからこそ、認知症の人や障碍者とのダンスに良さを見出すことができるのだろう。自分の欠点を見つけ高めることに意識を向ける人は、技術向上、高みを目指すダンスに向いてる。どっちがよい悪いではない、どっちが向いてるかどうか、だ。

・とつとつダンスというのは決まったかたちのダンスではなく、一つのアートプロジェクトの総称だと考えると分かりやすい。舞台の発表だけでなく、ホームでのワークショップ、哲学カフェなど領域を超えて行われる営みすべてを含む。

・日常で見捨てられるディスコミュニケーションに目を向ける。そこに価値を見出す。

・本屋で見つけて買った。すぐ買わなかったし、買ってもすぐに読み始めなかった。なんでだろう、こんなにヒットして自分のテーマにもリンクする本なのに。

それもタイミングがあるということか。僕自身、そして本自体が読まれる時期が来ることを待って いたのかもしれない。

・本文の中に出てくる本や筆者名。すべて読んだことがあったり、本で持っているものばかりだった。

・筆者がワークショップを行う老人ホームのスタッフについての批判が心に残る。

その笑顔、子供に話しかけるような話し方、なんとも言えない居心地の悪さを感じたということ。

居心地が悪い。それはあるんだよなー。それを見ないふりをして、介護職らしいスタッフとして演じているということか。

・最初に感じていたとまどい、を思い出させる。もっと戸惑っていればいいのか。笑顔じゃなくふれあってもいいのではないか。

・ダンス作品を作る際に、ペアを組む人と2年くらい、ずっと対話していたとのこと。ここが面白いなー、と思った。大学の生徒にも、どう思った?どう感じた?とずっと質問しているらしい(質問魔のじゃりおさん)

・一緒にダンスを作るというのはそういうことなのか。とすると、介護もダンスだとしたら。一緒に介護する人と、何が好き?どんな本を読んだ?と聞くことが必要ではないか・

・介護施設では、介護技術とかの研修はあるが感性を磨く場所がない。